福利厚生と採用④

  • 前回では局所的・分権的な性格をもつ労働市場には他の取引市場以上に情報の非対称性が発生し、サーチコストが高くなり需給のミスマッチが発生しやすいなかで、福利厚生にどのような対応が可能かを検討した。米国ザッポス社が自慢の福利厚生策である「Zappos Wishez Program」というユニークなコミュニケーション施策を積極的に動画投稿するなどして応募者に自社の企業文化や企業理念をリアルに伝えようとするケースを紹介した。このケースは採用における福利厚生の可能性を如実に示していた。
  • すなわち、福利厚生は賃金や人事評価、職務内容といったある意味で“ハード”な労働条件では伝えきれない、会社という存在、その時空間のもつ雰囲気や体質、文化などの“ソフト”な職場環境をリアルに、そして直感的に応募者たちに伝えることができるものだということである。今風に換言すれば「見せる化」に適した珍しい「絵になる」人事施策なのである。これを最大限に活用しない手はないのである。
  • もちろん、この手法でのハードルは決して低くない。何の個性もない、会社からの明確な制度設計・運用の意図や、「社員を大切に」「社員のために」といったメッセージ性も希薄な福利厚生ならば「見せる化」しても「絵になる」はずもない。しかし、一方で必ずしも従来のような「充実した福利厚生」といった資金力がベースになるアピールではないという点で中小企業でも十分に活用できるものである。現に急成長したザッポスも創業近いベンチャー企業の段階から社員の一体感や、常に顧客に感動を与えようとする「WOW !」という企業理念をいかに体現するか、社員たちと共有するかを模索しつづける中で件の施策が誕生したのである。

     
    Zappos
     靴のネット通販会社Zapposは世界でも屈指のクールなオフィスを持っている。従業員は、社内に用意されたジム、カフェ、アーケード、エレベーター内のタッチパネル式ゲーム、ギフトショップ(社内向けに1つ、一般向けに1つ)を利用できる。また、職場にペットの犬を連れて行くこともできる。さらに毎月受けられるプロフェッショナルによるアメニティサービス(例えばマニキュア、洗車、アートセラピー)なども利用できる。
    ZDNETより抜粋「福利厚生が充実した10の海外IT企業 – 3/10」 https://japan.zdnet.com/article/35132693/3/
    Kristen Lotze (TechRepublic) 翻訳校正: 石橋啓一郎 2019-02-23 08:30

     
    会社という時空間のもつ雰囲気や体質、文化などの“ソフト”な職場環境を、会社側から積極的に、そして工夫して情報発信し、リアルに伝えることは、単に応募者と企業との情報の非対称性を軽減して応募者を増やす効果だけに止まらない。人材確保という点でさらに、もっと重要な効果をもたらす。
     
  • 労働市場特性からくる採用市場でのミスマッチの問題は、採用数そのものの確保が困難となると同時に、その派生的問題として新規学卒者の早期離職問題に発展する。つまり、情報的なミスマッチが解消されないまま採用され、入社することで就活・採用段階で埋められなかった情報の“溝”が原因となって離職を誘発させてしまうのである。つまり、学生たちの漠然とした「期待や予測」と、入社してみた企業のなかでの「現実」のあまりに多くのギャップに驚くことになる。当然である。わが国は世界でも珍しい新卒一括・定期採用方式が浸透しているが、これも情報の非対称性からのミスマッチが多発し、放置されやすい構造であって大量離職の誘発原因のひとつとされる。現在の米国では既存社員の紹介、推薦による「リファラル採用」が主流となっているが、この方式ならミスマッチがかなり抑制できるとされている。現実に日々働いている友人の社員からリアルな社内情報が事前に伝えられるからである。
     
  • 就職先企業について十分な情報をもたないまま、入社した元学生達がその本当の実態に接することによる負の驚愕はリアリティ・ショック(Realty Shock、以下、RS)と呼ばれる。このRSが失望や幻滅をもたらすことで離職を惹起する。新卒一括・定期採用方式は、企業が自社の良いところだけを伝えて大量の学生を集めようとする一方で学生も「強み」だけをアピールするシナリオが決まった“儀式”のような採用方式であり、その結果として採用されると、このRSは当然、大きくなるわけである。
  • Schein(1978)はRSを「ある組織への参入者が参入する以前に抱いていた理想と参入後の現実とのギャップに出会うことで陥る心理状態」と定義している。また看護師の離職問題を研究テーマとするKramer& Schmalenberg( 2004)たちは「数年間の専門教育と訓練を受け,卒業後の実社会での実践準備ができていないと感じる新卒専門職者の現象,特定のショック反応である」と定義づけている。いずれにしても「現実と理想のギャップ」現象としてとらえられ 初期的な社会適応問題として世界的に論じられてきた。わが国でも「七五三問題」として長らく関心を集めてきたが、なかなか劇的な改善は見られていない。筆者は、このわが国の新卒早期離職問題の本質は既存社員の定着問題とは異なり、採用問題であるとみている。新卒一括・定期採用というある意味で安易な、手抜きの採用方式に依存してきた帰結なのである。短期間に、一括して、儀式的に、そして互いの情報の非対称性を埋める努力は限定的で、といった妥協の産物だからである。
  • もちろん、学生側にも問題は多い。この問題は「青い鳥探し現象」とも呼ばれることがある。自分の理想とする仕事、職業、企業、つまり“天職”がどこかに必ずある、と信じて、抵抗なく離職を繰り返してしまう心理を表したものである。この「青い鳥」を過剰に期待させたのは大学での理想論先行のキャリア教育にあることも本当に反省すべきだが、採用対応での企業の「いい顔」だけ見せようとするやり方が学生には、青い鳥探しの起点となってしまうことも事実であろう。
    話が脱線するが「青い鳥」の一方で筆者のような古い世代では「石の上にも三年」という諺を親から、上司から散々に言われてきた。せめて三年程度は辛抱する覚悟や根性をもって臨まないとと、その仕事や職業の遣り甲斐や楽しさも見えてこない、というごもっともなお話である。これにも真実の一端があるかもしれない。わが国の世界に冠たる長期勤続慣行は、この覚悟と根性に支えられてきたのである。リタイアが近づく昨今は古き同期入社の連中と飲む機会が増えたが、いつも話題になるのが「定時退社が四時二十分」という当時の保険会社の「青い鳥情報」にまんまと騙されたというネタである。そして四十年近くキツい勤務に耐えた彼らのうち、誰一人その時間に帰宅できた者がいないというほろ苦いオチになる。
  • いずれにしても現在の若者達が甘い、弱いといわれようが、リアリティショックによって離職していることが事実であるとすれば、その対応は考えなければならない。
    このRSを緩和する採用方法はないのか、という問題意識から登場したのがRJP(Realistic Job Preview)理論による採用方式である。わが国では金井(1994)がいち早くこのRJP理論を体系化した産業心理学者のワウナス/Wanous, J. P. (1973,1975a,b)の研究成果の詳細を紹介している。ワウナスは電話交換手や生命保険の営業マン、さらにビジネススクールの入学者等を対象とした一連の定量調査の分析からこの方式の効果(離職率の低減)や課題、適応可能性に関する幅広い検証を行った。採用方式としてのRJPとは, 組織や仕事の実態について, 良い面だけでなく悪い面も含めてリアリズムに徹した情報を提供する方式である。 この考え方に基づく採用は,Realistic Recruitment (リアリズムに基く採用)とも称される。
    「いい顔」ばかりをアピールして「期待」を高めて、入社までこぎ着けたとしても、すぎに離職されたら元も子もない、どころか高額な採用費用が全く無駄で回収不能な埋没費用(Sunk Cost)になってしまう。それならば思い切って「いい顔」だけでなく「本当の顔」を見せて「期待」そのものを現実の水準まで引き下げようということである。ならば、入社後のRSの発生が緩和されて離職を抑止できるという、やや苦し紛れ感の漂う発想である。
    このRJP理論による採用方式はわが国では一部、流通業で採用されているが、一般にはなかなか普及していない。次回、そのあたりの原因も含めて、福利厚生の活用での可能性を考えてみよう。
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