採用と福利厚生⑤
2026
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前回は就職先企業について十分な情報をもたないまま、入社した元学生達がその本当の実態に接することによるリアリティ・ショック(以下、RS)という失望や幻滅が早期離職を惹起している中で、そのRSを緩和する採用方法はないのか、という問題意識から登場したのがRJP(Realistic Job Preview)理論について紹介した。これは産業心理学者のワウナス/Wanous, J. P. (1973,1975a,1975b)が体系化した理論であった。
会社のリアルな現実を入社前に体験させるなどして、会社の事、仕事の事、そして社員たちの様子をできるだけ知ってもらい過剰な期待感を修正させることでRSを緩和し、定着につなげようという発想は確かに実践的である。わが国では高い早期離職率で苦しんでいた流通業、外食産業などで導入が図られたケースがある。採用過程に比較的長い期間の販売店舗での実践研修を組み込んだのである。
このRJP理論に基づく採用方式(Realistic Recruitment)には次の四つの効果があるとされている。それそれの効果の概要と福利厚生との関係性を考えてみよう。
まず第一は「スクリーニング効果(screening)」である。これは仕事や会社のリアルな情報に早く接することで応募者自身が自らの適合性を判断したうえで入社の可否を決断するという自己選択の効果である。「自分にできる」と判断できれば採用過程を進めることを申し出ればよいし、もし「自分には向いていない」「無理だ」という判断になれば、その時点で選考を自ら辞退すればよい。応募する学生などにとっても、少しは自信喪失になるかもしれないが有難い話でもある。就活中に見極めができて、自分が働けるとある程度、納得できる企業だけに絞って活動できるからである。これはRSが発生するよりも先に、それを未然に就活段階で防ぐという効果であり、応募者が自分で決められるという点で自己非マッチング効果(マッチングしないという自己判断)といってもよかろう。
福利厚生にも、このスクリーニング効果と密接な関係がある。例えば、複数の内定を得た時点でわが国では内定者懇談会なるものが開催されることが多い。人事部門以外の社員も動員されて、内定者たちと飲食を共にして懇親を深めるのである。実はこれは遅まきながらの、ある種のRJPで、内定者は人事部門以外の、ある意味で“リアル”な社員たちと初めて接する機会となる。採用担当やリクルータはやはりある程度、お化粧されているというか、仕込み、されているというか、本当のリアルではない“いい顔”をさせられて学生と接触している。しかし、懇談会に動員された若手、中堅のなかには“昼飯代、浮くぞー”くらいの気楽な動機で参加する者も必ずいる。そこで彼らは、初めて学生達と接して何気なく“リアル”な会話をしてくれるのである。内定学生にとって、この懇談会への参加する唯一最大の目的はこれである。筆者のゼミ生のケースでは、このお気楽社員を発見して重大な機密情報を聞き出すことように指導している。「本当に休みは取れるんですか?」「住宅手当はいくら?、何歳まで?」「ブラックな上司って結構いますか?」「残業代って全部つきますか?」等々である。この類の本音話は採用担当やリクルータには訊けないし、訊けたとしても“リアル”情報ではなく、かなりぶ厚いオブラートに包まれた反応となりやすい。
学生達はここでやっと本当に知りたい事を質問し、回答を得て入社するかどうかの判断の参考にするのである。わがゼミ生で本当にあったケースでは、そのお気楽社員の方から「うち(内定企業)はやめといた方がいいよ、ブラックだから」という決定的なリアル情報が飛び出して、内定辞退した事がある。苦労を重ねて選考して内定を出し、懇談会まで引っ張り出した人事部門には実にお気の毒だが、学生にとっては九死に一生を得た気分、虎口の口から脱した思いだったようである。見事なスクリーニング効果である。また、優秀な女子学生のケースでは内定を四社獲得したなかで、決定打は懇談会での女性社員達の本音情報だった。懇談会の二次会のような場で「育児休業はすごく取りやすいし、復帰支援もしっかりしてる」「女性だからって不利になった経験はないよ」と教えてくれた企業に入社している。
しかし、この話の流れから思うのだが採用過程で福利厚生の事を尋ねることがご法度、もしくは不謹慎のような扱いを受けている点である。学生達は「御社の経営理念とは?」とか、「御社の今後の成長戦略について」とか、まぁ本当に知りたいかどうかは怪しいお定まりの質問をしなければ、採用に不利だと信じており、人事側も福利厚生の事をあれこれ尋ねるような学生は不謹慎で、仕事のやる気がない学生とすぐに決めつけてしまっていないだろううか。まぁ、これが儀式のようなわが国の新卒一括採用方式のルールなのであろうが、まさにコミュニケーション・ミスマッチである。聞きたい事を聞けず、本音を応えてくれないコミュニケーションである。このでは、RSが多発するのも当然なのである。仕事や会社の話もしっかりするが、入社後の私生活に大きな影響のある福利厚生の話ももっと企業側からしっかりと実態を説明し、自慢できる良き点があればアピールすればいいのである。やがて同じ釜の飯を食う仲間なのだから。儀式もほどほどにすべきである。大企業、伝統企業ほど、この儀式信奉者が人事部門に多いような気もする。
第二の効果はRJPがまさに目指すもので早期離職を抑制する「ワクチン効果(vaccination)/予防効果」と名付けられている。
読者もご存じのとおり、予防接種として使われるワクチンとは、ウイルスや細菌(抗原)をあらかじめ無毒化あるいは弱毒化した上で体内に入れることで、その感染症に対する免疫(抵抗力)を作り出し、実際に感染症にかかった際に深刻な病状になりにくくするための予防策である。また、ワクチンを注入された人がまわりの人に感染させない点も重要なのである。
このような効果がRJPによる採用で発揮されるという。つまり会社や仕事のリアルな情報こそが、無毒化あるいは弱毒化したウイルス、細菌という位置づけになる。なんか、笑える話ではあるし、言葉に少しこだわると無毒化あるいは弱毒化ということが匙加減として、なかなか難しいRJPではなかろうかと心配ではある。いずれにしても応募者が企業や仕事に過度の期待、楽観的な見通しをもつことを、事前に弱毒化させたリアル情報、つまり会社の厳しさの一端や仕事の辛さを知らせておいて、それを納得していることで、入社後に否応なく飲まされる猛毒?に当たっても、早期離職という重症になるのを防ごうという話である。入社後のRSによる失望や幻滅の症状が和らげられる効果である。匙加減は難しいだろうが、免疫無し入社して、いきなり猛毒でショックするよりは間違いなくいい。
また、この「ワクチン効果」には、採用過程時にウイルスを注入された応募者が他の応募者に感染させないということも示唆しているとしたら、この効果名、なかなか深~い命名と思う。店舗研修などが辛くて大変な仕事と体感して、辞退してしまったとしても、就活段階で辞退できるチャンスを与えてくれたというある意味での感謝の思いが「ブラック企業だぁ」という悪評の拡散を思い止まらせると同時に、それほど大変な業務で成り立っている企業であることを知って、消費者としてファンになったりする事もあるそうである。
加えて、ワクチン注入後の入社組のなかでも、やはりRSによって離職するケースはある。しかし、この離職の感染力は弱い。RJPではない従来方式で採用をしている企業で、早期離職率の高い企業の話をうかがうと、一人の新入社員が退職すると、次々と芋づる式に、堰を切ったように辞めていくという連鎖現象があるらしい。まさに、「辞めたい病」のウイルスの猛毒があっという間に社内に拡がるような事態となるらしい。しかし、RJPのワクチン注入組ではこの連鎖が限定的となる。RJPのワクチン効果は入社後も残存しており、こうした事態も回避できることになる。
この「ワクチン効果」の実現にも福利厚生はユニークな貢献が可能である。この点について次回、詳しく解説したい。
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